「かみいち町民のネタ帳」
Vol.1, 特集 「大岩七不思議」

7、鉄砲の弾になりかかった鐘


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長い長い時間は様々な記憶や痕跡を風化させていきます。

恐らくこれまでも、誰にも語り継がれることなく

時間の流れの中で風化し消えていった歴史的事実がたくさんあったことと思います。

もしかしたらこの鐘の話もそのひとつだったかもしれません。

種さんは東京生まれ。小学校一年生まで過ごし、昭和20年の3月に東京大空襲に遭い焼けだされるような形で、

お父さんの親戚のある上市町の松和町へ(当時は横町と呼ばれていました)やってこられたそうです。

その後昭和20年の8月に終戦を迎えますが、種さんの記憶では、大岩の鐘が帰ってきたのは戦争が終わってから

2年ほど経ってからとのこと。

富山市の鋳物工場から上市駅まで運ばれた鐘は松和町の住民の方々によって荷馬車に乗せられ大岩山日石寺まで届けられました。

荷馬車一台に鐘を乗せ、それを守るようにもう一台荷馬車が出されました。

荷馬車には大人から子供まで乗り込み、芸者さん達が三味線や笛、太鼓を鳴らしそれはにぎやかに大岩道を上っていったそうです。

種さんらの記憶の中に残っていたこの鐘の物語。

取材をはじめた当初はその事実を裏付けるものは種さんをはじめ松和町の方数人の証言だけで、

今現在鐘撞堂にかけられている鐘がそのときのものなのか、

その後掛け替えられたものなのか証拠は何一つ出てきませんでした。

物証を得ることは難しいのだろうかとあきらめかけた頃、吉報が入りました。

上市町職員の方があらためて鐘の周囲の文字を読み解いたところ、

なんとそのことを記したであろう記述が出てきました。

そして彫られた日付には昭和22年とあります。

上市駅から大岩日石寺まで運ばれた年代は、種さんのご記憶通りでした。

まだ完全に読み解かれたわけではなく、事実関係を詳しく調査していく必要がありますが、

戦争に巻き込まれていったことはまぎれもない事実です。

時は流れ、時代が変わり、世代が変わっていく中で、

日本が戦争をしていたということさえ体験として語れる方がどんどん減っていってしまっている中、

日石寺の鐘はその体験を語りかけるように、戦争をただの昔話にしないために今も鳴り続けています。

 

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